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想像力

最近の若者の足りないものといったら僕は想像力だと思う。

 

物事を想像する力だ。

 

 

問題を解決するためには必ず結論を導き出すための道筋がある。

逆に言えば、道筋を見つけ出すことができなければ結論は出ない。

 

僕たちは時間にとらわれている。必要以上にだ。

 

だから、対して考えもせず、すぐに答えを知ろうとしてしまう。

 

厄介なのが、教えてもらった答えが正しいか正しくないかを確認することもせず鵜呑みしてしまい、それを結論だと思い込んでしまうことだ。

 

ここにも想像する力が足りていない。

 

嘘というのは自分が思ったよりも簡単につけて気づいたら自分の口から出ていってしまうことが多い。

 

答えを教えてくれた人が嘘をついてるという可能性を疑わずにそうだと思い込んでしまうこと。

 

本当に怖いと思う。

 

 

みなさんは“おっぱい”というものを知っているだろうか?いや、必ず知っているはずだ。

 

全男性を虜にするあの脂肪だ。

 

今の時代は昔の時代に比べて、おっぱいの好みもわかれ、大きいもの、小さいもの、美しいもの、醜いもの……。

 

全てのおっぱいに需要がある時代だ。

 

 

                  “おっぱいは柔らかい”

 

これはみんなが知っている常識だ。

 

正面を北としたときの西側を“右“と呼ぶくらい常識だ。

 

 

でも、僕はおっぱいを触ったことがないから本当におっぱいが柔らかいのかはわからない。

 

想像でしかないのだ。

 

僕は、おっぱいに期待を輝かせている16歳の少年だ。 こんな人が想像するおっぱいは柔らかいだろう。

実際におっぱいを見たことのない僕でもおっぱいは星の数ほどあり、その全てが柔らかいわけではないということを知っている。

 

でも、おっぱいは柔らかいと思ってる。

 

なぜだろう。

 

それは僕が“常識”にとらわれているからだ。

 

その常識が嘘であるわけがないと信じ想像することを放棄した結果である。

 

常識という魔物は気づいた時には自分の中に潜り込み潜んでいて、血液のように全身を巡り僕の心を支配していく。

 

その結果、僕はおっぱいは柔らかいと思い込んでしまった。

 

 

疑わないことを優しさだと思い込んでいる人はたくさんいるかもしれない。

 

僕はそうではないと思う。

 

例え、どんな小さなことでも疑い、想像し確かめる必要があると思う。

 

違うことは違うと教えてあげられることこそが優しさなんではないだろうか。

 

“おっぱいは必ずしも柔らかい“

 

これが違うのならば

 

「わたしのおっぱいは柔らかくないよ?触ってみる?」

 

と言ってくれるお姉さんが現れることこそが優しさなんではないだろうか。

 

 

この世の全ての優しいお姉さんに告ぐ。

 

俺におっぱいの柔らかさを教えてくれ。。。