おつきさま

藍色の空に佇んでいた中秋の名月はコンパスでクルっと回転されたように丸く、スポットライトを浴びたように大袈裟に輝いていて、なんだか下品に感じた。私の中で月は大人しく淡い光を放って“陰”の役割を担うものだと思っている。だから、それに逸脱しすぎている中秋の名月を見て下品だと感じた。なんて傲慢でなんてくだらない感性を持っているんだろうと自分で自分のことが悲しくなる。

悲しいけど、これが自分なんだ。これが18年間磨き上げてきた感性なんだと諦め受け入れるしかない。

自分に絶望し諦めというメガネを掛けて覗いた世界は、いつかの社会の授業で見せられた戦争映画のようにモノクロで色も希望もない。でも、この世界を作り上げたのは紛れもなく自分であり責任は自分にある。このメガネはある種の呪いのようなもので、自分で外すことは出来ない。呪いを解くには第三者、もしくはそれに準ずる“何か”の介入が必要だ。ドラクエならお金と教会の神父。白雪姫ならお純粋な心を持った人のキス。と言ったように何かに頼らなければならない。

私はいままで誰かに助けを求めてまで呪いのメガネを外そうとは思わなかった。この眼鏡があれば人生が楽になるからだ。俺のような人間は~俺ごときの人間は~と必要以上に自分を卑下し相手を上げることで余力を使わずに生きることが出来る。無駄な体力を使わずに済む。ただ、無駄なものや意味の無いものを排除し自分が選択したものだけを行うのはとてもシンプルで味気ない。

 

私は4月から芸大に通う。芸術の世界は実力主義で弱肉強食の世界だ。淡白な世界でモノクロの街を眺め続けた私が太刀打ちできるものではない。だから、私は変わることにした。第三者、もしくはそれに準ずる“何か”を探して頼ることにした。そして、それを見つけることが出来た。無駄で意味がなく全力になれるもの。そうだ。

 

Tik Tokだ。

 

これに気づいた私はすぐさまダウンロードし髪の毛と眉毛を整え準備に取り掛かった。私はいままでTik Tokをやるような人間を見下していた。加工された嘘の音楽に合わせて偽りの自分を演じた動画を全世界に向けて披露する。これに何の意味があるのか意義があるのかは皆目見当もつかなかった。だからこそ、私は呪いを解くためにやらねばと思った。

 

全力○○始めるよ!

 

全力笑顔!

 

全力キメ顔!

 

全力真顔!

 

全力変顔!

 

全力オコ顔!

 

全力泣き顔!

 

最後は笑顔ではいチーズ!

 

Tik Tokがこんなに技術を要するものだとは実際に行うまでわからなかった。アップテンポのビートに合わせて数秒ごとに表情を変えろという無理難題。これは反応では間に合わない。Don't Think.Feel 考えるな感じろ。つまり反射的に表情を変えなければならないのだ。全力笑顔!と言われてから笑顔を作る。全力キメ顔!と言われてからキメ顔を作るのでは遅い。真夏の海で8時間遊んでから日焼け止めを塗るくらい遅い。笑顔を作りながらキメ顔の作り方を考える。私の想像していたよりも脳みそを使うゲーム、いや、戦いだった。

 

気づいたら1時間ほど、Tik Tokで全力○○を撮り続けた。

 

実際に自分の顔を眺め続けたら色々なことに気づけた。

まずは、私は人工的な笑顔が酷く下手であるということだ。口角は上がっているため笑っているように見えなくもないが、笑ってるとも言い難い。今年の5月に高校の卒業アルバムの個人写真を撮った。なるべく早く終わらせたかった私は全力笑顔!をした。カメラマンに「疲労が見えるからもう少し頑張って」と言われた。その時は「うるせぇよ」と思ったが、言われても仕方がないくらい偽物の笑顔だった。

 

笑顔すらまともに出来ない私が他の表情を上手に作れるわけもなく2005年の日本シリーズ阪神タイガース並に惨敗だった。

 

Tik Tokを1時間ほどやって、呪いのメガネが取れたかと言われれば否である。リズムに合わせて表情を上手に作ることすら出来ない自分にさらに絶望し、呪いのメガネの威力は増した。そして、Tik Tokを上手に使いこなす人を尊敬することにした。

私が尊敬している人物は岸政彦氏とサン・テグジュペリ氏と田島芽瑠氏だ。

Tik Tokerを尊敬した夜は秋雨が降りしきり漫画の主人公になれた気分だった。