ドドールと耳の穴

リビングでぼーっとこたつに入りながら時計の秒針を眺めていたら机の上のiPhoneが好きだった人(以下先輩)からのメッセージを受信した。たまたま私の最寄り駅にいるんだけど次の用事まで3時間くらいあるから付き合って。ということだったので30分待っててと返信をして寝癖を直してiPhoneをズボンに、財布をショルダーバッグに詰めて自転車に飛び乗った。

指定された場所は最寄りの一番大きい本屋に併設されてるドドールで数ヶ月前(確か梨がとても甘かった季節)に一緒に来た時は当時の彼氏の愚痴のような惚気を散々聞かされた。今回もそんな感じだろうなと思いながら、遅くなりましたって挨拶した。

 

先輩は黒のパーカーにジーンズに“VANS スニーカー”と検索したら1番上に出てきそうな黒のスニーカーを履いていた。ラフというかカジュアルというか何も考えてなさそうに服を着る先輩のことも好きだったなぁって思い出した。好きな人と会う時や気合を入れる時にはニットを着たりもっと“女の子っぽい”(この表現が適切なのかはわからないし多分違うと思う)ものをお召しになることを知ってるけど、もう何も感じなかった。

 

店の中は空いてるわけではなかったけれど混んでるわけでもなくて365日の中の1日って感じだった。何の変哲もないただの一日。私はホットコーヒーとアップルパイ。先輩はホットコーヒーとミルフィーユを頼んだ。私の好きな人が先輩だった時はカッコつけたくて奢っていたけど、私の好きだった人が先輩になってからはちゃんと割るようにした。

 

対面に座ってドキドキしながら先輩を顔を世界の人々からバレないように盗み見したら、左耳に私の知らない穴があった。1年前の高校を卒業した時に先輩が右の耳を空けたら痛くて泣いちゃったと少し恥ずかしそうに照れながら言ってたのを思い出して、あの時から情報をアップデート出来ていないことがやけに切なかった。

 

先輩は色んなことを話してくれた。バイト先のガールズバーの贔屓にしてくれるおっさんからのナンパがしつこくて困っていること。3月に大学の仲間とプーケットに行くこと。帰りは関西空港に降りて大阪旅行をすること。Da-iCE(先輩の好きなアイドルグループ)のこと。その他色々と矢継ぎ早に喋ってくれた。

先輩はいつも「そんでさ~聞いてよ~あのね、」と言って話を始める。髪の毛の色が変わっても、爪の装飾が派手に変わってもこれだけは変わらない。きっと、オリオン座が夏の星座になっても松屋からカレーがなくなってもこれだけは変わらないんだろうなって思った。

変わらない、変わっていないとこを見つけて安心する度にお前は対面に存在する先輩よりも部室で一緒に汗を流していた先輩を探してるんだよって言われた気がして苦しくなる。黒髪で爪が短かかったあの頃を。

 

時間はあっという間に過ぎて先輩はドドールを後にした。同じ匂いを嗅いで同じ音楽を聴いて同じ温度のコーヒーを飲んだのに先輩の心の中は何もわからなくて私と先輩は今日も知り合いのままだった。

 

先輩の手の湿り気や唇の感触を知りたかったあの頃は緊張して噛み噛みでどうしようもなかったけど無性に楽しかった。何も求めなくなってからは緊張しなくなったし虚しさばかりが残る。

都合の良いように利用されるだけなのはわかるのに、また次も誘われたら行くんだろうな。ホイホイと。

 

次があるのかわからないけど、その時までにそのミルフィーユひと口貰ってもいいっすか?って言えるように練習だけはしておこう。そこから始めてよう。