前髪

 前髪を分けておでこを出すようになってから約1年が過ぎた。視界が開けた世界にも少しずつ適応してきて、数年ぶりに変えて度が強くなったメガネに慣れるように、いつもと見え方が違う世界に気持ちの悪さを感じることはなくなった。思えば高校生の時から段々と重くなった前髪は私と世界との壁になっていたみたいだ。1年前、こめかみくらいまでしかなかった前髪も今では鼻が完全に隠れるくらいまで伸びた。ワックスである程度整えても下を向くと視界に髪が入るようになって、私と世界を分断する壁が少しずつ、苗木が幾千の月日を経て立派な樹になるように大きくなり始めた。1年かけてついてきた嘘が本当になりそうだったのに、全てが枯れて崩れてしまう気がして、私はオールバックにして長くなった髪の毛を後頭部で結い始めた。これで、高くした世界の彩度をもう少しだけ保てる気がした。

 

「人間に興味がなさそう。」と言われ始めたのは、確か高校生の頃だった。誰にどんなタイミングで言われたのかさっぱり覚えてないが、言われたことだけはハッキリと覚えている。人間に興味があるという状態が全くわからなかったのでなんとなく聞き流していたが、今思うと確かに興味はなかったのかもしれない。というか、自分のことで精一杯だったから他人なんて二の次だった。

 

 Twitterで知り合った人と遊ぶようになったのは高校二年生からだった。STU48の田中皓子さんのオタクと仲良くなったのがきっかけ。Twitterのタイムラインに流れてくるツイートは学校の教室でクラスメイトが喋っているような社会に適合した内容ではなくて、社会に適合できていない人たちが吐き出した唾のような無価値で無意味なものばかりで私もここに居て良いのだと許されてた気持ちになっていた。Aと思ったことをAだと吐き出して良い場所。前髪で分断された私と世界の私側にある場所のような気がして一日中居座っていた。前髪が少しずつ伸びていく。

 

大学生になってバイトを始めた。高校の時に部活でボルダリングをしていた流れでボルダリングジムを選んだ。私側の中でずっと生活をしていたので、壁の向こう側の世界であるバイトに中々適合できなかった。AをAと胸を張って言えるほどの自信も責任もなくて、なるべくコミュニケーションを取らずに済むように黙々と一人で行える雑用をやり続けていたら、それはそれで評価してもらえてなんか変な感じだった。

 パンデミックによって客足が減り暇な時間が増えた。一生終わらないと思っていた雑用も底が突き、いよいよコミュニケーションをとらねばならぬ時が来てしまった。周りの社員やスタッフとの雑談を円滑かつ違和感を排除しながら自分のままで行うのが苦痛でしかたなかった。そこで、私は自分自身に嘘をつくことにした。端的に言えば、別の自分をイタコのようにおろして壁の向こう側に行く作戦だ。最初は上手にいかなかった。マインドだけじゃ意味がないと思ってビジュアルから変更することに決めた。全体的に重かった髪の毛をすいて、前髪を真ん中で分けた。壁の内側から見える開けた世界の情報量に圧倒されて気持ちが悪かった。丁度同じ時期に別の理由で始めた煙草を吸うと頭が少し鈍化する感じがして、私と世界を繋ぐ架け橋になった。そこからは簡単だった。明るくて軽薄で適当な感じを出しながらなんとなく相槌を打っていたらそれっぽくなれる。完璧にはなれないけど、擬態はできている気がした。素の私から明るい私、明るい私から素の私へとアカウントの行き来のきっかけとして煙草をなんとなくふかしていたらドハマりしてしまった。

 

 髪を切ってから半年後、ボルダリングジムを辞めて都内のシネコンでバイトを始めた。私はポップコーン売り場を任された。朝から夜まで出れますとシフトを申請したら最初の出勤日は平日の朝だった。平日の朝の映画館は驚くほどに客がいなくて、”街はとても静かすぎて世界中に二人だけみたいだねと小さくこぼした”ってこんな景色を見て歌ったのかなとがらんとしたロビーを見ながら思った。私の研修をしてくれた人は30歳の男性だった。PAになりたくて専門学校に通っていると言っていて、私が大学で学んでいることと同じでビックリした。音楽とか何聞くの?と値踏みのような質問をされて答えに困窮していると、じゃあここに来るまで何聞いてきたの?と質問を変更してきた。嘘をついてもしかたないので菊池成孔小田朋美が二人でやっているFinal Spank Happyです。と本当のことを言うと、君はそっち側なんだね。とニヤリとしながら彼自身が分断している彼と世界の彼側の中に入れられた気がして少し息苦しかった。彼はceroが大好きらしく、二人で好きな音楽の話をしていたら、その日のバイトはあっという間に終わった。喫煙所で、好きな音楽という本当の自分を明るく振る舞う自分のアカウントで使用したことに違和感を少しだけ感じたが煙と共に吐き出した。

 

 シネコンバイトは早番と呼ばれる朝帯にはフリーターが多く、遅番と呼ばれる夜帯には学生が多かった。年齢が近い人よりもそれなりに離れている人とコミュニケーションを取るほうが得意ということをなんとなく自負していたし業務内容も楽だったので早番としてバイトに入ることが多かった。とにかく、客がいない時間帯は暇で手持無沙汰になることが多く、暇に対抗できる唯一の方法が雑談だった。「最近あれにハマってて~」みたいな話や「あの新譜聞いた!?」みたいな話を永遠として時間になったら帰宅する。みたいなことを毎回毎回やっていた。明るい自分をおろしながら本当の自分の話をすることに違和感を段々と感じなくなっていき、二つのアカウントの境界線が曖昧になっていることすら気づかない。仲良くしていた方が業務に支障が出にくいこともなんとなくわかり始めてきたし、実際それなりに仲良くなっている自覚もあったので何も気にしないまま日々のバイトをこなしていた。

 早番と言っても長い時間のシフトだと遅番の人と被る時間もあり、その少ない時間の中で同世代の人と雑談をするようにもなった。明るく嘘をついていると、なんだか、見透かされている気がして怖くて明るい自分のまま本当の自分の話を随所に散りばめるようになった。前髪が目を完全に覆い被すくらいまで長くなった。

 

 同い年の人たちの飲み会をやることになった。男2女6という歪なバランスだったが、これを断って頑張って築いてきた社会性の類似品がなくなってしまうことが怖くて参加を決意した。当日、もう一人の男の子が発熱で来れなくなってしまい、男が私だけになってしまった。幹事の人から「男性が一人になって気まずさもあると思うけど来てくれると嬉しい」と連絡が来て、やっぱり見透かされてるんだなと思いながら、俺も今日は楽しみにしているからもちろん参加するよ。と新宿に向かう総武線の中で返事をした。

 私はお酒に強いほうではないのだが、この日はいくら飲んでも酔えなかった。ビールにウーロンハイ4杯、ハイボール3杯飲んでも全然変わらず自分を保っていた。中々酔っていた子から全然酔ってなくない?と芋焼酎のロックを飲まされたけど全然酔いは来なかった。飲酒すると喫煙したくなるスモーカーの性にしたがい喫煙所に逃げると、その会に参加していた一人の子も一緒についてきた。私たちにはなれない私と彼女は同じ空間で煙草を吸った。私が唯一本当の私に戻れる場所。そんな場所でさえ嘘をつかなければならないことが苦痛で仕方なかった。「お酒、強いんだね」と彼女はまっすぐ見つめながら言った。吐き出しだ煙はゆっくりと消えていく。本当の自分も嘘の自分も放棄した私は何も言えずに煙を吸った。「今日、楽しかった?」と視線を変えずに彼女は同じ音量で問を投げてきた。「いや~。こんなに楽しかったの生まれてはじめてだよ」とはにかみながら答えを投げる。「そっか。」彼女は灰を落とした。「なんか、いつも本心じゃない所で喋っている風に感じてたからさ。誰にも見せない部屋があるというか。でも、喫煙所で言ってくれるなら本当なんだろうね。」彼女はまだまだ吸える煙草を灰皿に捨てて、「お先に」とこの空間に落としてみんなのところに戻っていった。私は前髪が燃えないように二本目に火をつけた。

 

 自分が完全にわからなくなってしまった。私が唯一社会に適合できると思った術すらも簡単に見透かされてしまう。本当の自分のままで大丈夫と思っていたインターネットすらもお姉ちゃんになりたいとか奇天烈なことをほざくキャラクタを演じてしまっている。前髪は鼻が完全に隠れるほどに伸びた。真ん中で分けても鬱陶しくて仕方がない。私が出来ることはひとつしかなかった。こんなことをしても意味がないことは一年かけてわかった。それでも、方法も手段もひとつしか持ち合わせていない私はこうするしかなかった。

 

 新たな視界から見える世界のまぶしさに慣れるのはいつ頃だろう。歩くたびに揺れる馬の尻尾に違和感がなくなるのはいつ頃だろう。本当の自分も嘘の自分もそんなもの存在しなくて全ては後付けでしかないと認められるのはいつ頃だろう。あの頃は若かったと笑い話に昇華できるほどに心が鈍化するのはいつ頃だろう。1年かけて自分を守るためについてきた嘘を無意味と手放せるのはいつ頃だろう。

 

 前髪で隠した本当の自分。なんて詩の歌を私は多分聞かないのに。