確認。

電車の中で窓の外を見てはしゃいでいる子供がいた。窓の外はスカイツリー隅田川もなくて、ただ誰かが生活してる街があるだけだった。流れる風景を見てはしゃげる子供が羨ましかった。ただ同じ風景を見ているのにキラキラした眼になれる子供と何も変わらない私。でも、これはどうしようもないことで、窓の外を見てはしゃいでいる子供はザ・ウィークエンドのカッコ良さもわからないし、コジコジを通して見るさくらももこの恋愛観の尊さにも気づけない。加齢によって失う感性と得る感性がある。ただ、それだけの話なのに言葉にして確認をしないと整理が出来ない自分の頭の硬さがとてつもなく嫌だった。

 


バイトの先輩の送別会があった。1年も一緒には働いていないが色々なことを教えて頂いてとても感謝をしていたので、送別会に参加をした。その先輩は一回生の時から交際をしている恋人がいる。恋人は院進、先輩は就職の道を選んだ。先輩は、恋人が院を卒業した辺りで結婚かなとぼんやり思っていて、一緒にいたひとたちもそれが妥当だよねとぼんやりと漂わせていた。酒が進み、先輩は「結婚はしたいけど結婚はしたくない」と言い出した。結婚をしてしまうと、遊べなくなり俺の青春が終わってしまう。でも、結婚をして誰かのために生きて落ち着きたい気持ちもある。“誰かのために生きる”なんて自分の人生の責任を放棄することだと思うし、そんなに青春(遊ぶこと)を手離したくないなら、青春に飽きるまで結婚しなければ良いのに、なんてモヤモヤした気持ちは口から煙として吐き出した。納得できないのは私だけみたいで皆が同意の言葉を述べ始めた。この圧倒的な強者たちの言葉がすごく怖かった。恋人がいる自分すら想像できず、「もし彼女ができたら~」みたいなIfの話さえ濁してしまう私に結婚が手のひらの上にあって、するもしないも意のままの人の言葉なんてわかるわけがなかった。

結婚と幸せがイコールであると考える人たちに囲まれ終わった帰り道、自分の幸せが偽物である気がして怖かった。住宅街を歩くと一軒家に幸せの色をした優しいあかりが灯っていて、それがやけに眩しかった。急いでイヤホンをつけて大好きなceroを爆音で流して誰もいない路地で踊った。それがとてつもなく楽しくて心の底から安心した。彼らには彼らの幸せのカタチがあって、私には私の幸せのカタチがある。確認をしないとわからないのはとても辛いし間違えることもある。それでも、確認しないとわからないから確認を続ける。自分を確認する。

 


「あちこちオードリー」という番組で若林がこんなことを言っていた。

「海外旅行とかさ、海外ロケ行ったあとさ、成田に着くときにさ、雲があってさ、雲の上にいるときは下が見えないじゃん。雲抜けたら下が見えてくるじゃん。ホントのことを言わない国に着陸するんだなと思うもん。旅行って、Aだと思ったことをAだって言うじゃん。おいしい、きれい、びっくりする、感動する。AをAじゃん、ずっと。でも、雲から下の成田着陸してから、AをCって言ったり、AをDって言う仕事で飯食ってるから俺。全部の仕事がそうだよね、大人って」

 

私はずっと友達がいないと思っていた。普段も一人でいる方が多いし楽しいし楽だ。それでも、一緒に島根や沖縄に旅行に行ってくれる人たちがいるし、飯を誘えば食ってくれる人たちもいる。そんな人たちを無視して“友達がいない”なんてほざくのは失礼だし、実際、“この人たち”といてすごく楽しかった。 “この人たち”の共通項を炙り出せば“友達”がわかるかもしれない。お得意の確認を始めた所、この若林の言う「Aだと思ったことをAだと言う」というのがひっかかった。

自分で言うのは違うと思うが、私はひねくれている。その上に自己肯定感も低く頭も悪い。だから、Aだと思ったことをAだと言い続けてたらその場が円滑に進まない。だから、私は普段、場を円滑にするためにAのことをCやDで言うことがある。でも、“この人たち”の前ではAのことをAだと素直に言うことが出来ている気がした。それで場が円滑に進まなくても対話をしてくれて、円滑にならない原因を探れた。A=Aで会話をできる人を友達と名付けることに抵抗はなく、自分の中にスっと入ってきた。 空白だった友達の欄にスラスラと色々な人の名前が当てはまり、好きな人の手を握っている時のようにほのかに暖かくてドキドキした。

 

 

 

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