輪郭を描いてくれたあなたへ

拝啓

 

ご無沙汰しております。

 

お元気でしょうか。私が最後にあなたの姿を拝見したのは半年以上も前になってしまうんですね。まだまだ寒さを感じながらも桜の開花を待ち望む人々の希望に似た何かに当てられて鬱々としながら難波の公園でうだうだとお酒を頂いていたのを覚えています。

 

さて、本題ですがあなたが書き上げた『アイドル失格』、拝読しました。正直、今でもよくわかっていません。これは本の内容もですし、自分の気持ちの落としどころもです。

 

恋を言葉にするとはどのような営みなのでしょうか。言葉にするというのは物事に輪郭を与えるという行為です。ベタな話になりますが、例えば“肩こり”という言葉を知らないひとは肩をこることはありません。なぜなら、肩をこっている状態がわからないからです。何かのきっかけで“肩こり”という言葉を知って、それがどのような状態なのかを理解して、ようやくその人は肩をこるのです。正確には、自分が肩をこっている(またはこっていない)ことに気づくのです。


私が『アイドル失格』を読む前に楽しみにしていたひとつめの点がこれでした。あなたがどのような言葉を用いてどのような状態のことを“恋”と定義するのかです。あらすじの時点で“禁断の「アイドル×オタク」恋愛小説”とありましたし、恋が物語の主軸になっていることは明確でした。私が恋をしていた相手の恋の定義なんて気になるに決まっています。

 

ケイタ(本作の主人公。ガチ恋しているDカス)の言い分は物凄くわかりました。アイドルのことをアイドルとしてではなくひとりの女性だと思ってしまっていること。自慢ではありませんが、私にもガチ恋の経験があるのでとてもよくわかります。彼女が見せてくれているのはアイドルとしての彼女なのに段々と線引きが曖昧になっていき、私が見ている彼女はペルソナを脱いだ彼女なんだと錯覚してしまうのです。見に覚えがありすぎて、傷口に塩を塗られている気分でした。ケイタの恋は好きの延長線上にあるものでした。誰かを好きになって、誰かが自分の人生の中心にある状態。それを恋だと認識していました。

 

対して、実々花です。この物語は実々花がケイタのアルバイト先に訪れるシーンが一つ目の転換点となっています。アイドルでありながら自分を推しているオタクのケイタに会いに行く。この動機は恋愛感情に基づくものではありませんでした。元からケイタの価値観などにシンパシーを感じていましたが、それが恋愛感情とは結びついてはいません。実々花は進路のことで母親ともめてしまい自暴自棄になっていました。この時、実々花は母親は私のことをわかってくれないと思い、私のことをわかってくれるのはケイタだと思い、アルバイト先に向かったのです。

 

二つ目の転換点は「テトラファン感謝祭」です。テトラとは実々花が所属しているグループのことです。この感謝祭とは名ばかりのもので、実際は総選挙のようなものでオタクの札束によりグループのセンターが決まる催し。実々花は2年連続1位でデビュー以来ずっとセンターでした。今年も1位になれるだろうという油断で実々花は3位(テトラは4人グループ)になってしまいます。実々花はもちろん落ち込んでしまい、家のベッドでエゴサーチをしていました。慰めてくれるオタクのツイートは目を滑っていく中で実々花の心を刺したのはケイタからの長文のDMでした。内容は一貫して実々花のことを肯定・承認するもので、実々花はそれを読んで“胸の支えが取れたみたいに涙がボロボロと溢れ”たのです。

 

つまり、実々花にとっての恋とは“承認”だったのです。幸福な人々や親のような体制側の人間は私を理解してくれないと嘆きながら孤独を感じ、そんな暗闇の中で一筋の光になっていたのが私のように満たされていなくて生きづらそうなケイタだったのです。そしての、その光は私を私だけを照らしてくれるスポットライトのようなものでした。

 

昨今、自己肯定感なる言葉が猛威を振るっておりますが、私はそんなの存在しないと思っています、自分のことを認め、信じぬくことは不可能とまでは言いませんが困難であり、誰しもができるものではないです。人間は社会的な生物であり、多くのひとは他の人間と関わりながら生活しています。そして、そのなかで人間は往々にして同じ作業を他人と一緒に行います。それは仕事であったり、勉強であったり、運動であったり。そのなかでどうしても得手不得手が判明していき、自分の弱さに向き合ってしまうのです。実々花もそうでした。サヤのようなリーダーシップも萌のような覚悟もあかりのような明るさもないと悲観しています。ケイタでさえ、実々花の魅力を「希望」というひどく曖昧な言葉で表現しています。そんな中で自分に自信を持てという方が難しいでしょう。自分の弱さに向き合い傷ついていくなかで必要なのはそんな自分を承認してくれる他者です。この他者の関係は何でもよく、家族でも友達でも同僚でも恋人でも。大事なのは自分を承認してくれること。そして、自分の崩れていくアイドルとしてのアイデンティティを適切な言葉で崩れないようにしたのがケイタだったのです。ケイタによる強い承認でアイドルとしてのアイデンティティを保ち、それはクライマックスのシーンにも続いていきました。


私がここで注目したいのは、実々花の恋は承認によるものでこれは真に恋なのか?ということではなく実々花の状態です。ケイタは実々花のことをアイドルとしてではなくひとりの女性として好きと言っていましたが、実々花はプライベートの状態ではなくアイドルの状態としてケイタに惹かれていったのです。この差異によってふたりは少しギクシャクしますが、この差異に向き合うことなく物語は進行していき、クライマックスを迎えます。この物語を「切なくも希望に溢れた青春小説」と銘打った意味が最初はわかりませんでした。だってケイタが自分の錯覚に気づかないまま中途半端な恋をするはめになったのに。しかし、実々花にとっては確かに希望に溢れた物語だったと思います。自らを強く承認してくれる存在に出会い、仲間を裏切るような行為をしておきながらも裏切りの片棒を担いだ相手に言わなくても良い事実を告げて気持ち良くなり、最終的に自分の希望する進路を選択する。現役アイドルという立場でアイドルとオタクの恋愛について書くことを面白いと感じてしまう浅はかで厚顔無恥な作者が綴る「希望」だと思えば確かにぴったりだと思いました。

 

私は『アイドル失格』の情報が出た時に強い悲しみを覚えました。何に例えられましょうか。何にも例えなくて良いですね。あなたに理解して頂きたいとは思っていませんから。情報解禁の際にギリギリで自分を保てていたのは、まだあらすじしか読めていなかったからです。全編を通して読めばきっと変わるはず、あらすじの通りに希望があるはずと信じていました。私は希望を見ることができませんでした。全面的な敗北です。もう、あなたを信じるのは無理だなと思いました。この本の感想は良かったとしても悪かったとしても絶対に伝えなければと思っていました。謎の使命感です。勘違いとはこのようにはじまるのでしょうか。それはどうでも良いですね。この本のお渡し会が関東でもあるとこのことで申し込みを行い、無事に当選しました。ここで私はさよならを告げようと思いました。アイドルとオタクの関係というのは歪なものでオタクが会いに行かない限りアイドルに会うことはできず、アイドルからオタクに会いに行くことはありません(その歪さについての話も今作に含まれています)。ですので、私はここで今までの感謝を告げてさよならを告げようと思っていました。本来、そんなことを言う必要は一切ないのですが、嫌みのひとつでも言ってスッキリしたいというのが本当のところです。

 

あなたとお話するのは1061日ぶりでした。毎日毎日数えていたわけではなくコンピューターに計算してもらいました。久しぶりに聞くあなたの声は相も変わらずに甘美で強い煙草を吸ったときのようなクラクラを覚えました。まだ、私のことを覚えていたんですね。人は本当に驚くと半身になることを知りました。横顔が好きだったことを思い出しました。ショートカット、とても素敵でした。いつ髪の毛を切ったんですか?そんなことすらもわからなくなってしまいました。いざ、あなたを前にして私は何を言えば良いのでしょうか。どのような顔をすれば良いのでしょうか。存在しない答えを探してしまうのは私の悪い癖です。声が上ずっているのを感じて少し恥ずかしくなります。私の声を上ずらせる、たったひとりの人。そろそろ、決められた時間が終わるのを予感し、話を終わらせようと思いました。ここで、さよならを告げるのです。悲しい顔をしてくれるのでしょうか、引き留めてくれるのでしょうか。嘘でも良い。そのような顔をしてくれたら今まで真剣に恋をしてきた私が報われるのです。追いかけ続けた恋を最後の最後に追われることで終わらせる。陳腐なプライドと器の小ささをどうしようもなく感じてしまいます。言葉は決めていました。「今までごめんなさい。さようなら」です。自分の数多くの奇行を謝罪し、別れを告げる。この上なく完璧なプランです。あとは言葉を発するだけでした。ここに来るまでに頭のなかで数えきれないほど詠唱してきたのに、実際に口から出た言葉は「ありがとうございました。幸せでした。」でした。精一杯の嫌みを込めた“今まで”すらも言えませんでした。私の言葉を聞いた時、あなたはどのような顔をしていたか覚えていますか。私は忘れてしまいました。どのような顔で、どのような声で、どのような気持ちで、そんな私に「ありがとう」と告げてくれたのでしょうか。

 

『アイドル失格』を読みながら本当に色々なことを思い出しました。それは良いことも悪いこともです。私は劇場で踊るあなたが大好きでした。他の15人よりも圧倒的な輝きを放っていました。秋元康の言葉を借りるなら“夜空に輝く数多の星から大事なひとつを今なら指させる”です。握手会の時のあなたは正直あまり好きではありませんでした。あなたは私の欲しい言葉を全て与えてくれました。そして、私はそれを素直に喜ぶことはできませんでした。私はアイドルというペルソナを脱いだあなたとコミュニケーションがしたかった。それでも、あなたは頑なにそのペルソナを脱がずにエンターテインメントを提供してくれました。その言葉を信じ切ることも、馬鹿のふりして楽しむこともできませんでした。今思えば、それはあなたのプロ意識だったのでしょうか。盲目的になっていた私は気づけませんでした。ごめんね。上記の通り、私はあなたのことをひとりの女性として好意を抱いていました。それも本当に厳しかった。私は幸せになりたかった。そして、幸せになるためにはあなたが必要でした。あなたと一緒に居ることを私の生活にしたかった。これは本当の気持ち。ただ、それと同じくらいアイドルとしてのあなたも好きだったのです。もし仮に色んな偶然が折り重なり何かがあったときにあなたがアイドルでいられなくなることが本当に怖かったです。私の気持ちのせいで好きなひとの人生を無茶苦茶にしてしまうのが怖かった。この八方塞がりでどうしようもない自分の気持ちの折り合いの付け方が一切わかりませんでした。狂いそうになる毎日の中でパンデミックが始まり多重の意味での距離が生まれたのが本当にありがたかった。ギリギリのラインで狂わなくて済んだ。

 

『アイドル失格』を読み終わった時、私は作者(つまりあなた)がこの物語を通して何を伝えたかったのかさっぱりわかりませんでした。ケイタと実々花の中途半端な行為の意味すらもわかりません。それもそうだと思います。だって恋に意味なんてありませんですから。気づいた時には好きになっていて、どうしようもなくて、理屈ではわかっているのに理屈だけでは意味がない。それが恋なのではないでしょうか。私はこの本を通じて恋をしていたことを本当に意味で思い出しました。1061日の間、本当に色んなことがありました。あなたを思って発狂しそうな日もありました。あなたを忘れようと必死になった日もありました。彼女が居た時期もありました。体温の温かさにびっくりした日もありました。大学1年生だった私は大学4年生になりました。高校3年生だったあなたは大学3回生になりましたね。就職先も決まりました。卒業論文はまだ一行もかけていません。本当に色々なことがありました。色々なことがあるなかで変わらないこともあったのです。私の恋の輪郭です。私の恋の輪郭はあなたが描いてくれたものでした。輪郭だけが定められて空っぽの中身をあなたに彩って欲しいと願ってしまうのは流石に愚かだと笑ってくれるでしょうか。私はもう少しだけ自分の愚かさと向き合ってみようと思います。こんな感想文はあなたが求めていたものではないでしょう。こんなものはYouTubeのコメント欄で自分語りをしているやつらと一緒です。それでも、私は書かずにはいられませんでした。あなたが『アイドル失格』を書いたように。

 

私はまだ、あなたにありがとうもさようならも言えません。なので、せめてこれだけは言わせてください。大好きです。寒くなるので身体に気を付けて。

 

敬具

22歳

22歳になりました。


私の誕生日をお祝してくださったみなさまありがとうございます。私は誕生日が心の底から苦手であることを再確認できて本当に良かったです。

 

誕生日、やはり苦手でした。根本的に私は希死念慮がもりもりで死こそが最大の救済だと思っています。それでも自殺しない理由は両親に対する感謝のみです。私の両親は私の成長に積極的に関わってくださりたくさんの愛を注いでくれました。私はあと半年で大学を卒業します。一般的に子供が大学を卒業するまでに関わる諸々の費用は2000万円程度と言われています。そこまで金銭を注いだのに何の恩も返さずに死んで無になったあげく葬式などの費用や手間などの追い打ちをかけるのは親不孝の極みでしょう。私は人間関係においていちばんフラットな関係性は等価交換だと考えています。何を与えられたら、その分何かを与えなければならない。そのやり取りがない関係は歪だと考えています。無償の愛みたいな言葉に騙されたくありません。両親に育ててもらった恩義を何かしらのカタチで返さなければならない。そして私はそれが未だに達成できていないから生きています。誕生日というのはどうしても一年間を振り返えざるを得ないでしょう。21歳を振り返った時に両親に対して何も与えることができず一年分の恩だけがたまってしまったことを再確認しました。この国、というかこの世界において誕生日は祝うべきものだとされており、一般的な社会常識を有する両親は例に漏れず誕生日をお祝いしてくれます。私はそれを重荷に感じてしまいます。私の誕生日を祝うために何かしらのプレゼントを送ってくれた数奇な方々も何人かいらっしゃいました。嬉しく思わなければならないと思いつつもやはり重荷に感じてしまいます。わざわざカガワから送ってくれた友達に関してはこちらから貢物を要求し、それに答えてくれただけなのに重荷は感じませんでした。プレゼントをくれた方々はおそらく心の底から私の誕生日をめでたいと感じてくださった結果であり、私に対して何かを求めているわけではないでしょう。私はそれが怖い。非打算的な関係というか私に対して何も要求せずに近寄ってくる人間が怖い。にもかかわらず、私は何人からも期待されたくないし求められたくない。そして私は何人にも期待したくないし求められたくない。誰にも関わりたくないにも関わらずインターネットのオタク諸君と関わるのは、自分が健常者であることを確かめたいからであり、悪い言い方をすればオタクを利用して社会性をギリギリ保とうとしているのです。私は誕生日が苦手ですが、他人の誕生日を積極的に祝います。なぜなら社会において誕生日は祝うべきものとされているからです。社会からはみ出すわけにはいきません。社会から孤立してしまったら両親に対する恩義を返すことができないからです。他人の誕生日は祝うのに、他人から誕生日を祝われたくない。こんなやつ、本当にしょうもないと思います。

あえて22歳の目標を言うならば、これまでに引き続き"両親が死ぬまで生きる"になります。
重ねてになりますが、お誕生日をお祝いしてくださったみなさまありがとうございました。

前髪

 前髪を分けておでこを出すようになってから約1年が過ぎた。視界が開けた世界にも少しずつ適応してきて、数年ぶりに変えて度が強くなったメガネに慣れるように、いつもと見え方が違う世界に気持ちの悪さを感じることはなくなった。思えば高校生の時から段々と重くなった前髪は私と世界との壁になっていたみたいだ。1年前、こめかみくらいまでしかなかった前髪も今では鼻が完全に隠れるくらいまで伸びた。ワックスである程度整えても下を向くと視界に髪が入るようになって、私と世界を分断する壁が少しずつ、苗木が幾千の月日を経て立派な樹になるように大きくなり始めた。1年かけてついてきた嘘が本当になりそうだったのに、全てが枯れて崩れてしまう気がして、私はオールバックにして長くなった髪の毛を後頭部で結い始めた。これで、高くした世界の彩度をもう少しだけ保てる気がした。

 

「人間に興味がなさそう。」と言われ始めたのは、確か高校生の頃だった。誰にどんなタイミングで言われたのかさっぱり覚えてないが、言われたことだけはハッキリと覚えている。人間に興味があるという状態が全くわからなかったのでなんとなく聞き流していたが、今思うと確かに興味はなかったのかもしれない。というか、自分のことで精一杯だったから他人なんて二の次だった。

 

 Twitterで知り合った人と遊ぶようになったのは高校二年生からだった。STU48の田中皓子さんのオタクと仲良くなったのがきっかけ。Twitterのタイムラインに流れてくるツイートは学校の教室でクラスメイトが喋っているような社会に適合した内容ではなくて、社会に適合できていない人たちが吐き出した唾のような無価値で無意味なものばかりで私もここに居て良いのだと許されてた気持ちになっていた。Aと思ったことをAだと吐き出して良い場所。前髪で分断された私と世界の私側にある場所のような気がして一日中居座っていた。前髪が少しずつ伸びていく。

 

大学生になってバイトを始めた。高校の時に部活でボルダリングをしていた流れでボルダリングジムを選んだ。私側の中でずっと生活をしていたので、壁の向こう側の世界であるバイトに中々適合できなかった。AをAと胸を張って言えるほどの自信も責任もなくて、なるべくコミュニケーションを取らずに済むように黙々と一人で行える雑用をやり続けていたら、それはそれで評価してもらえてなんか変な感じだった。

 パンデミックによって客足が減り暇な時間が増えた。一生終わらないと思っていた雑用も底が突き、いよいよコミュニケーションをとらねばならぬ時が来てしまった。周りの社員やスタッフとの雑談を円滑かつ違和感を排除しながら自分のままで行うのが苦痛でしかたなかった。そこで、私は自分自身に嘘をつくことにした。端的に言えば、別の自分をイタコのようにおろして壁の向こう側に行く作戦だ。最初は上手にいかなかった。マインドだけじゃ意味がないと思ってビジュアルから変更することに決めた。全体的に重かった髪の毛をすいて、前髪を真ん中で分けた。壁の内側から見える開けた世界の情報量に圧倒されて気持ちが悪かった。丁度同じ時期に別の理由で始めた煙草を吸うと頭が少し鈍化する感じがして、私と世界を繋ぐ架け橋になった。そこからは簡単だった。明るくて軽薄で適当な感じを出しながらなんとなく相槌を打っていたらそれっぽくなれる。完璧にはなれないけど、擬態はできている気がした。素の私から明るい私、明るい私から素の私へとアカウントの行き来のきっかけとして煙草をなんとなくふかしていたらドハマりしてしまった。

 

 髪を切ってから半年後、ボルダリングジムを辞めて都内のシネコンでバイトを始めた。私はポップコーン売り場を任された。朝から夜まで出れますとシフトを申請したら最初の出勤日は平日の朝だった。平日の朝の映画館は驚くほどに客がいなくて、”街はとても静かすぎて世界中に二人だけみたいだねと小さくこぼした”ってこんな景色を見て歌ったのかなとがらんとしたロビーを見ながら思った。私の研修をしてくれた人は30歳の男性だった。PAになりたくて専門学校に通っていると言っていて、私が大学で学んでいることと同じでビックリした。音楽とか何聞くの?と値踏みのような質問をされて答えに困窮していると、じゃあここに来るまで何聞いてきたの?と質問を変更してきた。嘘をついてもしかたないので菊池成孔小田朋美が二人でやっているFinal Spank Happyです。と本当のことを言うと、君はそっち側なんだね。とニヤリとしながら彼自身が分断している彼と世界の彼側の中に入れられた気がして少し息苦しかった。彼はceroが大好きらしく、二人で好きな音楽の話をしていたら、その日のバイトはあっという間に終わった。喫煙所で、好きな音楽という本当の自分を明るく振る舞う自分のアカウントで使用したことに違和感を少しだけ感じたが煙と共に吐き出した。

 

 シネコンバイトは早番と呼ばれる朝帯にはフリーターが多く、遅番と呼ばれる夜帯には学生が多かった。年齢が近い人よりもそれなりに離れている人とコミュニケーションを取るほうが得意ということをなんとなく自負していたし業務内容も楽だったので早番としてバイトに入ることが多かった。とにかく、客がいない時間帯は暇で手持無沙汰になることが多く、暇に対抗できる唯一の方法が雑談だった。「最近あれにハマってて~」みたいな話や「あの新譜聞いた!?」みたいな話を永遠として時間になったら帰宅する。みたいなことを毎回毎回やっていた。明るい自分をおろしながら本当の自分の話をすることに違和感を段々と感じなくなっていき、二つのアカウントの境界線が曖昧になっていることすら気づかない。仲良くしていた方が業務に支障が出にくいこともなんとなくわかり始めてきたし、実際それなりに仲良くなっている自覚もあったので何も気にしないまま日々のバイトをこなしていた。

 早番と言っても長い時間のシフトだと遅番の人と被る時間もあり、その少ない時間の中で同世代の人と雑談をするようにもなった。明るく嘘をついていると、なんだか、見透かされている気がして怖くて明るい自分のまま本当の自分の話を随所に散りばめるようになった。前髪が目を完全に覆い被すくらいまで長くなった。

 

 同い年の人たちの飲み会をやることになった。男2女6という歪なバランスだったが、これを断って頑張って築いてきた社会性の類似品がなくなってしまうことが怖くて参加を決意した。当日、もう一人の男の子が発熱で来れなくなってしまい、男が私だけになってしまった。幹事の人から「男性が一人になって気まずさもあると思うけど来てくれると嬉しい」と連絡が来て、やっぱり見透かされてるんだなと思いながら、俺も今日は楽しみにしているからもちろん参加するよ。と新宿に向かう総武線の中で返事をした。

 私はお酒に強いほうではないのだが、この日はいくら飲んでも酔えなかった。ビールにウーロンハイ4杯、ハイボール3杯飲んでも全然変わらず自分を保っていた。中々酔っていた子から全然酔ってなくない?と芋焼酎のロックを飲まされたけど全然酔いは来なかった。飲酒すると喫煙したくなるスモーカーの性にしたがい喫煙所に逃げると、その会に参加していた一人の子も一緒についてきた。私たちにはなれない私と彼女は同じ空間で煙草を吸った。私が唯一本当の私に戻れる場所。そんな場所でさえ嘘をつかなければならないことが苦痛で仕方なかった。「お酒、強いんだね」と彼女はまっすぐ見つめながら言った。吐き出しだ煙はゆっくりと消えていく。本当の自分も嘘の自分も放棄した私は何も言えずに煙を吸った。「今日、楽しかった?」と視線を変えずに彼女は同じ音量で問を投げてきた。「いや~。こんなに楽しかったの生まれてはじめてだよ」とはにかみながら答えを投げる。「そっか。」彼女は灰を落とした。「なんか、いつも本心じゃない所で喋っている風に感じてたからさ。誰にも見せない部屋があるというか。でも、喫煙所で言ってくれるなら本当なんだろうね。」彼女はまだまだ吸える煙草を灰皿に捨てて、「お先に」とこの空間に落としてみんなのところに戻っていった。私は前髪が燃えないように二本目に火をつけた。

 

 自分が完全にわからなくなってしまった。私が唯一社会に適合できると思った術すらも簡単に見透かされてしまう。本当の自分のままで大丈夫と思っていたインターネットすらもお姉ちゃんになりたいとか奇天烈なことをほざくキャラクタを演じてしまっている。前髪は鼻が完全に隠れるほどに伸びた。真ん中で分けても鬱陶しくて仕方がない。私が出来ることはひとつしかなかった。こんなことをしても意味がないことは一年かけてわかった。それでも、方法も手段もひとつしか持ち合わせていない私はこうするしかなかった。

 

 新たな視界から見える世界のまぶしさに慣れるのはいつ頃だろう。歩くたびに揺れる馬の尻尾に違和感がなくなるのはいつ頃だろう。本当の自分も嘘の自分もそんなもの存在しなくて全ては後付けでしかないと認められるのはいつ頃だろう。あの頃は若かったと笑い話に昇華できるほどに心が鈍化するのはいつ頃だろう。1年かけて自分を守るためについてきた嘘を無意味と手放せるのはいつ頃だろう。

 

 前髪で隠した本当の自分。なんて詩の歌を私は多分聞かないのに。

 

 

 

 

 

 

あじさい通り

雨降り続くよ あじさい通りを

カサ ささずに 上向いて走ってく

全部 ごちゃ混ぜにする 水しぶき

 

バイトの帰り道、ポケットの携帯が揺れた。用事がある時だけ自ら動くことが出来る携帯は私の対人関係に似ている。ポケットから携帯を取り出すと画面に水滴が弾けて雨に気づいた。長袖長ズボンでは気づかない程度の雨だった。通知を確認するのが億劫になり携帯をポケットに隠して上を向いて歩いた。トートバッグに忍ばせてあったカサをさす程の雨量ではなかった。この、ポツリポツリと降る雨が私の眼球に入る確率はどのくらいだろう。ポツリポツリとしとしとは何が違うんだろう。30歩くらい歩いたところで上を向くのをやめた。頬に何粒か落ちた雨は私を泣いているように化粧をした。乾いた瞳からは全く想像できないくらいに。雨が眼球に入る確率よりも遥かに低い確率の恋をしている。数学をまともに学ばなくて良かった。この恋の確率を導きだせたら、叶う確率が微かに確かに存在することに気づいてしまったら、パレットの上の感情を綺麗になると信じて混ぜた真っ黒なものに直面してしまう。

 

いつも笑われてる さえない毎日

でも あの娘だけは 光の粒を

ちょっとわけてくれた 明日の窓で

 

その娘がくれる言葉には全て丁寧に包装がされていた。受けったその時は嬉しくて仕方がなかった。幸せに形があるのなら、この包装がきっとそうだろうと信じてしまうくらいに丁寧で繊細で美しかった。こんなに美しいなら、きっと中身はとんでもないくらいに美しいのだろう。私はひとつひとつのシールを剥がし、リボンを解き、紙をめくった。ようやくたどり着いた箱を開けると何も入っていなかった。ひとつ、何かをくれるともっともっと欲しくなってしまう。次の言葉には想像できないくらいに綺麗な何かが入ってるに違いないと言葉を求め続けた。その気力が私の明日を作り彩った。

 

だから この雨あがれ

あの娘の頬を照らせ ほら 涙の数など忘れて

変わらぬ時の流れ はみ出すために切り裂いて

今を手に入れる

 

全ての恋はアクションにより産まれる。そして、全ての恋はアクションにより成長する。そのアクションを起した瞬間に犯罪が成立する。そんな事に気づいたのは1年が経った頃だった。ただ、私が居て、ただ、その娘がいる。それだけの幸せじゃ物足りなくなった。私の幸福追求により、誰が不幸になる。そして、その誰かが自分が好意を寄せているひとになる。道徳の授業なんて受けなければ良かった。そうしたら、私はもっともっと幸せになれた。私の猛スピードの幸せに轢かれて泣いている人の数も気に止めるなんてしなかった。

携帯を濡らした雨は知らぬ間にやんでしまった。雨は濡らした土地への責任を一切負わない。私はこの無責任さが羨ましい。

 

愛と言うよりずっとまじめなジョークで

もっと軽々と渡って行けたなら

嘘 重ねた記憶を巻き戻す

 

「基本的に本当のことしか言わないのにすき!は全然信じてもらえないのかなしいなあ」

 

だって信じることは間抜けなゲームと

何度言い聞かせたか迷いの中で

ただ重い扉 押し続けてた


あじさいが咲くと梅雨になるのか、梅雨になるとあじさいが咲くのか未だによくわかっていない。どれだけ雨が降っていろうとも、あじさいが咲いていなければ梅雨を実感できない。あじさいは紫陽花と書くよりもあじさいと書く方が好きだ。私から発せられた「あじさい」に字幕をつけるなら全て平仮名にして欲しい。

私は頭の中で薔薇を思い浮かべる時は赤い薔薇を、菊を思い浮かべる時は黄色の菊が出てくる。同じようにあじさいを思い浮かべる時は自然と水色と紫、その両方が出てくる。あじさいを紫陽花と書いてしまうと紫だけになってしまうようで寂しい。

 

だから この雨あがれ

あの娘の頬を照らせ ほら 寄せ集めた花抱えて

名もない街でひとり 初めて夢を探すのさ

今を手に入れる

 

頭の中で薔薇を思い浮かべると赤い薔薇が、菊を思い浮かべると黄色い菊が出てくる。頭の中で花を思い浮かべる時に、枯れた花が出てきたことは一度もない。あの娘が抱えた花束の中に枯れた花は一輪もない。枯れてしまった存在はするけど認識はされていない花はいったいどこへ消えてしまうのだろう。

私は自分の形がわからない。頬に雨粒が落ちて、自分に頬があることに気づく。繋いで伝わった温もりから手があることに気づく。幸せになりたいと思った時、私が手に入れた今が欲しかった今じゃないと気づく。私は今、どんな形をしていますか?

 

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確認。

電車の中で窓の外を見てはしゃいでいる子供がいた。窓の外はスカイツリー隅田川もなくて、ただ誰かが生活してる街があるだけだった。流れる風景を見てはしゃげる子供が羨ましかった。ただ同じ風景を見ているのにキラキラした眼になれる子供と何も変わらない私。でも、これはどうしようもないことで、窓の外を見てはしゃいでいる子供はザ・ウィークエンドのカッコ良さもわからないし、コジコジを通して見るさくらももこの恋愛観の尊さにも気づけない。加齢によって失う感性と得る感性がある。ただ、それだけの話なのに言葉にして確認をしないと整理が出来ない自分の頭の硬さがとてつもなく嫌だった。

 


バイトの先輩の送別会があった。1年も一緒には働いていないが色々なことを教えて頂いてとても感謝をしていたので、送別会に参加をした。その先輩は一回生の時から交際をしている恋人がいる。恋人は院進、先輩は就職の道を選んだ。先輩は、恋人が院を卒業した辺りで結婚かなとぼんやり思っていて、一緒にいたひとたちもそれが妥当だよねとぼんやりと漂わせていた。酒が進み、先輩は「結婚はしたいけど結婚はしたくない」と言い出した。結婚をしてしまうと、遊べなくなり俺の青春が終わってしまう。でも、結婚をして誰かのために生きて落ち着きたい気持ちもある。“誰かのために生きる”なんて自分の人生の責任を放棄することだと思うし、そんなに青春(遊ぶこと)を手離したくないなら、青春に飽きるまで結婚しなければ良いのに、なんてモヤモヤした気持ちは口から煙として吐き出した。納得できないのは私だけみたいで皆が同意の言葉を述べ始めた。この圧倒的な強者たちの言葉がすごく怖かった。恋人がいる自分すら想像できず、「もし彼女ができたら~」みたいなIfの話さえ濁してしまう私に結婚が手のひらの上にあって、するもしないも意のままの人の言葉なんてわかるわけがなかった。

結婚と幸せがイコールであると考える人たちに囲まれ終わった帰り道、自分の幸せが偽物である気がして怖かった。住宅街を歩くと一軒家に幸せの色をした優しいあかりが灯っていて、それがやけに眩しかった。急いでイヤホンをつけて大好きなceroを爆音で流して誰もいない路地で踊った。それがとてつもなく楽しくて心の底から安心した。彼らには彼らの幸せのカタチがあって、私には私の幸せのカタチがある。確認をしないとわからないのはとても辛いし間違えることもある。それでも、確認しないとわからないから確認を続ける。自分を確認する。

 


「あちこちオードリー」という番組で若林がこんなことを言っていた。

「海外旅行とかさ、海外ロケ行ったあとさ、成田に着くときにさ、雲があってさ、雲の上にいるときは下が見えないじゃん。雲抜けたら下が見えてくるじゃん。ホントのことを言わない国に着陸するんだなと思うもん。旅行って、Aだと思ったことをAだって言うじゃん。おいしい、きれい、びっくりする、感動する。AをAじゃん、ずっと。でも、雲から下の成田着陸してから、AをCって言ったり、AをDって言う仕事で飯食ってるから俺。全部の仕事がそうだよね、大人って」

 

私はずっと友達がいないと思っていた。普段も一人でいる方が多いし楽しいし楽だ。それでも、一緒に島根や沖縄に旅行に行ってくれる人たちがいるし、飯を誘えば食ってくれる人たちもいる。そんな人たちを無視して“友達がいない”なんてほざくのは失礼だし、実際、“この人たち”といてすごく楽しかった。 “この人たち”の共通項を炙り出せば“友達”がわかるかもしれない。お得意の確認を始めた所、この若林の言う「Aだと思ったことをAだと言う」というのがひっかかった。

自分で言うのは違うと思うが、私はひねくれている。その上に自己肯定感も低く頭も悪い。だから、Aだと思ったことをAだと言い続けてたらその場が円滑に進まない。だから、私は普段、場を円滑にするためにAのことをCやDで言うことがある。でも、“この人たち”の前ではAのことをAだと素直に言うことが出来ている気がした。それで場が円滑に進まなくても対話をしてくれて、円滑にならない原因を探れた。A=Aで会話をできる人を友達と名付けることに抵抗はなく、自分の中にスっと入ってきた。 空白だった友達の欄にスラスラと色々な人の名前が当てはまり、好きな人の手を握っている時のようにほのかに暖かくてドキドキした。

 

 

 

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マニキュア

私はInstagramのアカウントを2つ持っている。ひとつはこの人格。つまり、mayo_9_8としてのアカウント。基本的には参加したライブやイベントのことを投稿している。もうひとつは、オタクではない自分のアカウント。一般的な言葉を使うと“リア垢”になる。このアカウントでは、購入したものや食事(主にカレー)や見た映画など自分の半径1m以内のモノを投稿している。その中でヨンブンノイチを占めるのが読んだ本だ。私は結構何となくで読み進めてしまうことが多く読了したのに記憶からすっぽりと抜け落ちてしまうことが多々ある。この簡易記憶喪失を無くすためにInstagramを備忘録的に使用している。

 ある日、Twitterを眺めていたら好きな本についてツイートしているアカウントが流れてきた。ツイートの内容は記憶にないが添付されていた画像についてはとてもよく覚えている。白い壁の前で左の人差し指から小指までの四本を使って本の背を支え残りの親指でつまむように持っていた。その親指の爪が白くて綺麗な手に良く似合う黒に塗っていて、水族館でビジュアルも名前を知らなかった未知の深海魚を見た時のようにゾワゾワと心が惹かれた。その投稿を見て自分もやってみようと読了した本(確か川上未映子の「発光地帯」だった気がする)を左の人差し指から小指までの四本を使って本の背を支え残りの親指でつまむように持って写真を撮ってみた。全然違った。日に焼けた茶色で毛穴もある自分の手では想像通りに綺麗には撮れなかった。これで、自分の手が綺麗ではないことに気づいてポケットの中に隠すようになった。ひとつ、また生きるのが辛くなった。

私の人生はこんなんばっかなとため息をついた。私は極度の猿腕で他人に見せるとドン引きされてしまう。他人をドン引きさせてしまうほど醜い腕が嫌いで夏場でも長袖を着てしまう。臭いものには蓋をして、嫌いなものは隠して生きてきた。

 

この出来事から8ヶ月経ったある日、暇だったので妹に爪を塗ってもらった。上記の出来事があったにしろ、本当に理由はない。衝動みたいなもんだと思っている。協議の結果、緑色ならカッコイイもカワイイも兼ね備えてるのでは!?となり、緑で塗ってもらった。妙に甘い匂いで気分が悪くなりかけたけど、興奮の方が遥かに勝っていたので大丈夫だった。完成した緑の爪が嬉しくてみんな(これを読んでるあなたの事です)に見せびらかしたくて写真を撮ってる時に女性が男性よりも自撮りをする理由がわかった。女性はメイクをする機会が多い。メイクをするとすっぴんでは足りないと思うところや気になるところを補正することができ、その補正分だけ自分のことを愛せるんだなと思った。すくなくとも、自分の緑色の爪は愛することができた。  

 

爪を塗って世界の楽しみ方が少しだけわかった。気にしいで自意識過剰で自信が無い私はひと手間を加えて、そのひと手間分だけ自分のことを愛するしかない。何もしない等身大の自分なんて愛せないし誰からも愛されたことがないから。

 

ポケットから手を出すと北風が指先の感覚だけを盗んで、逃げた。それがちょっとだけ、嬉しかった。

 

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クリスマスと友達のはなし。

25日の夜はバイトだった。営業が終わると流れるように締め作業がはじまる。バーチャルゴルフのパソコンとプロジェクターを消して更衣室の確認。拾得物の有無の打ち込みと各ドアの施錠。バイトの仕事をこれくらいになる。その間、社員は売り上げの確認だったり、日報を書いたりする。それら全ての業務が終わり社員に報告すると、クリスマスツリーの撤収を命じられた。カウンターの横に狛犬のごとくずっしりと居座っていた偽物のクリスマスツリー。まず、巻き付けてあった電飾を剥がした。一緒に作業してたバイトさんが「3mくらいかな」と呟いた。私は電飾を八の字巻きにしながら「ホホジロザメのオスと同じくらいですね」なんて呟いたけど相手の耳には残らなかったみたいだった。次にオーナメントとくまのぬいぐるみを外して箱に入れて、最後にクリスマスツリーを事務所に運んだ。泣きたくなる気持ちを抑えながら。街全体の浮かれた気分に呑まれてソワソワしながらお寿司を食べたりケーキを食べたりしたクリスマス。明日の朝、枕元に何があるのか想像するとワクワクして眠れなくなってしまったクリスマス。そんなゲストとして過ごすクリスマスが終わってしまったんだなとクリスマスツリーを撤収しながら痛いくらいに感じてしまった。自分にはもうクリスマスを楽しむ権利もムードに浮かれる権利も何も無くて、誰かを楽しませたり浮かれさせたりするホスト側なんだ。この事実が社会から与えられた責任のようで重くて見えないランドセルを背負った気分になった。

次の日もバイトだった。基本的に暇なのでカウンターの中でお喋りしたり何か作業をして時計の針が回るのを待つ。こんな醜くて気色の悪い私に興味を持って話しかけてくる人間が怖いのでなるべく誰からも話しかけられないように空虚を眺めていると、そんなことお構い無しにこちらの作った壁をすり抜けてくる同い歳の女の子に話しかけられた。昨日の夜に歳上の大学生とヨコハマデートをしたらしい。微塵も興味がなかったが、悟られないように「へぇー!」と「そうなんだ」の二本刀で乗り切った。話の途中でその女の子がクリスマスプレゼントで男の子はなにもらって嬉しいのか全くわからない。「クリスマスプレゼント、何が嬉しい?」と質問された。『クリスマスプレゼントにもらって嬉しいもの』こんな簡単な問の答えが全く浮かばなかった。こんなにわからなかったのは物理基礎以来だと思う。そもそも“クリスマス”に“異性”から“プレゼントを貰う”なんてシチュエーションが自分に起こるなんて一切想像もしてなかった。軽くパニックになってしまい「愛」と答えてややウケだった。私がクリスマスツリーを撤収しながら、もうホスト側になっちまったなぁ……なんて思い上がっている間に同世代のオンナノコはクリスマスをゲストとして大満喫していた。クリスマスを楽しめるほど人生のど真ん中を歩いていなければ、リア充爆発しろ!なんてクリスマスを楽しまないことを楽しむほどセンスが終わってもいない。クリスマスを作るほど年を老いていなければ、受動的にクリスマスを与えられるほど若くもない。自分で決めた「ひとり」なのにそれがすごく重くて冷たい。でもそれが、時には守ってくれて時には楽にしてくれるから簡単には手放せない。

 


雪も降らない平凡な冬の日に友達の推しメンが卒業発表をした。アニメとか小説なら雨や雪が降るだろうけど、この世界はそんなに優しくないみたいだ。友達にもなんて言葉をかければ良いのか、はたまた、かけない方が良いのかなんて考えてたら、彼から着信があった。ちょっとだけ迷って電話に出ると友達は笑っていた。「実感がないや」なんて言いながら。いつもと全く変わらないその声が生々しくて泣いたり発狂したりするよりも気持ちが伝わってきて嫌だった。

前に「アイドルに対して希望を持つから絶望が生まれる。だから俺は希望を持たない」と言っていた彼が、決して綺麗ではなくて少しくすんではいたけど希望を持てたアイドルと出会えたことが少し羨ましく思えた。

 


窓の外を覗いたら月が半分だけ顔を出していた。次の満月の頃、彼女の寿命はあと少し。その頃には彼も隠れた半分の気持ちを口にすることが出来るのかな。できたら良いな。