22歳

22歳になりました。


私の誕生日をお祝してくださったみなさまありがとうございます。私は誕生日が心の底から苦手であることを再確認できて本当に良かったです。

 

誕生日、やはり苦手でした。根本的に私は希死念慮がもりもりで死こそが最大の救済だと思っています。それでも自殺しない理由は両親に対する感謝のみです。私の両親は私の成長に積極的に関わってくださりたくさんの愛を注いでくれました。私はあと半年で大学を卒業します。一般的に子供が大学を卒業するまでに関わる諸々の費用は2000万円程度と言われています。そこまで金銭を注いだのに何の恩も返さずに死んで無になったあげく葬式などの費用や手間などの追い打ちをかけるのは親不孝の極みでしょう。私は人間関係においていちばんフラットな関係性は等価交換だと考えています。何を与えられたら、その分何かを与えなければならない。そのやり取りがない関係は歪だと考えています。無償の愛みたいな言葉に騙されたくありません。両親に育ててもらった恩義を何かしらのカタチで返さなければならない。そして私はそれが未だに達成できていないから生きています。誕生日というのはどうしても一年間を振り返えざるを得ないでしょう。21歳を振り返った時に両親に対して何も与えることができず一年分の恩だけがたまってしまったことを再確認しました。この国、というかこの世界において誕生日は祝うべきものだとされており、一般的な社会常識を有する両親は例に漏れず誕生日をお祝いしてくれます。私はそれを重荷に感じてしまいます。私の誕生日を祝うために何かしらのプレゼントを送ってくれた数奇な方々も何人かいらっしゃいました。嬉しく思わなければならないと思いつつもやはり重荷に感じてしまいます。わざわざカガワから送ってくれた友達に関してはこちらから貢物を要求し、それに答えてくれただけなのに重荷は感じませんでした。プレゼントをくれた方々はおそらく心の底から私の誕生日をめでたいと感じてくださった結果であり、私に対して何かを求めているわけではないでしょう。私はそれが怖い。非打算的な関係というか私に対して何も要求せずに近寄ってくる人間が怖い。にもかかわらず、私は何人からも期待されたくないし求められたくない。そして私は何人にも期待したくないし求められたくない。誰にも関わりたくないにも関わらずインターネットのオタク諸君と関わるのは、自分が健常者であることを確かめたいからであり、悪い言い方をすればオタクを利用して社会性をギリギリ保とうとしているのです。私は誕生日が苦手ですが、他人の誕生日を積極的に祝います。なぜなら社会において誕生日は祝うべきものとされているからです。社会からはみ出すわけにはいきません。社会から孤立してしまったら両親に対する恩義を返すことができないからです。他人の誕生日は祝うのに、他人から誕生日を祝われたくない。こんなやつ、本当にしょうもないと思います。

あえて22歳の目標を言うならば、これまでに引き続き"両親が死ぬまで生きる"になります。
重ねてになりますが、お誕生日をお祝いしてくださったみなさまありがとうございました。