幼なじみ

俺はずっとお前のことが嫌いだった。


物心ついたときから俺はお前の横にずっといた。幼稚園に行く時も、送迎バスの中でも、かくれんぼしている時でも。お前にはお前の正義があって、それを絶対に譲ることは無かった。ダイアモンドパールの秘伝技の中にダイビングがあると言ったお前に、今回からは秘伝技じゃなくて普通の技であるだけだよ、と伝えてもお前は絶対に自分の非を認めなかった。
そんなお前を俺は自己中心的なヤツだと思い本当に嫌いだった。それでも俺はお前の横に居続けた。

 

小学校に入って俺は1年生の春から野球を始めた。理由はじいちゃんも親父も好きな野球を俺も好きになってみたかったからだ。
二年の夏にお前も俺と同じチームに入った。絶望的に野球のセンスもパワーもスピードも無かった俺は1年少しやって未だにノーヒットだったが、お前はまだユニーフォームも届いてなくてジャージで参加した練習試合でいきなりセンター前ヒットを打った。それから俺もお前もメキメキと上達して行ったが、結局お前を抜かすことはほぼ無かった。お前より上手かったのはバントと凡打の打ち方くらいだった。


中学校も同じとこで同じ野球部に入部した。礼儀が良いという理由で先生のお気に入りになった俺は同級生の反感を買いイジめられるようになった。俺のポジションはセカンドでそこの先輩は相対的にも絶対的にも俺よりも下手なのにレギュラーになろうとしたため、暴力で解決しようとした。身体的な痛みは慣れてきてなんともなるけど、精神的な痛みはどうにもならなくて、先輩の言う通りにわざと試合でエラーをしたり、練習をサボったりして、部内カーストの坂道を一気に転がり落ちていった。で、その空いたポジションのレギュラーになったのは紛れもなくお前だった。お前のポジションはサードだ。でも、サードの先輩はすげぇ上手くて市選抜のクリーンナップを打つようなやつでお前は代打要因でくすぶっていた。そこで、お前がコンバートされて、レギュラーになった。お前は俺からポジションを奪ったみたいで申し訳ないと視聴率1%未満のスポーツ青春ドラマみたいなことを言ってきたが、なんとも思わなかったし、なんとも思う余裕も無かった。
中学生になっても、お前はお前自身の正義を貫いた。監督は絵に書いた様な理不尽ハゲで何度も何度も意味不明なことで怒ってきた。それを俺たちは受け流すように謝ったが、お前だけは反抗した。その姿勢に監督はお前を干すことが何度かあったけど、それでも、お前は実力でグラウンドに戻ってきた。最高にクールだった。

 

先輩が引退してからも同級生からのイジめは続き最終的には塁間も投げられないくらい壊滅的な身体になっちまったけど、お前は何も変わらずに一緒に帰ってくれたし、変に心配されるよりはすごくありがたかった。

 

高校は別々になった。はじめて、お前のいない場所に飛び込むことになるんだと少しワクワクしたけど、無神教の俺でさえ神の存在を疑うほどの偶然が起きた。俺もお前もそれぞれの高校のクライミング部に入って、俺とお前の勝負は続いた。


俺はずっと、お前の背中だけを見続けて15年間生きてきた。だから、この高校生活は青春全部賭けてでも頑張ってお前をギャフンと言わせてやろうと思った。でも、青春全部賭けるなんて勇気は出なくて壁も小説も音楽もアイドルもAもBもCもDも愛した。お前は最高にバカだから、壁の前に立ち続けAだけを愛した。お前がワンピースやAAAを愛しているのは勿論知ってるけど、お前は1度も壁に背を向けることはなかった。それが、千葉で1位をとるお前と決勝ギリギリで落ち続けた俺とお前の差なのかもしれない。

 

ずっとずっとずっと、幼稚園の時から今まで俺はお前に勝ちたかった。今回の大会が最後のチャンスだった。ライバルなんて安っぽい言葉や親友なんて陳腐な言葉に俺とお前の関係を形容することは不可能だ。本田圭佑がプロフェッショナルとはケイスケ・ホンダのことだ、と言ったように俺とお前の関係は“俺とお前”だった。

 

最後の大会、お前は3位で全国の切符を掴み損ない俺は11位で決勝にすら行けなかった。俺の17年間を一言で表すなら「敗北」の言葉がぴったりだろう。お前に出会わなければ、一生忘れることの出来ないであろう悔しさの傷も負け続けることの惨めさも理解することもせず、楽しく生きられたと思う。もっと平和で穏やかな日常を。それでも、こんな敗北の一言がぴったりな人生になってしまっても、俺はお前と出会えて本当に良かったと思うし、それだけで最高の青春を過ごせたんだと思う。

 

ありがとう。また、戦おうぜ。