「特別の目的をもたずに、気の向くままに歩くこと」

ドアをこっそり開けると雨の匂いがした。雨を浴びたアスファルトから生まれるむせ返るような匂いではなくもう少し優しかった。夏の夜はとても優しい。ノイローゼになりそうな蝉時雨もおさまり、声の高い蝉が寂しそうにこっそりと鳴く。子供の頃は蝉が夜中にも鳴くなんて知らなかった。このことに気づけた私は大人に一歩近づけたと思う。右足が地面に着く度にポケットの中の2枚の百円玉が音をたてる。ちゃりんちゃりん。と。蝉に対抗してる気がして心が弾んだ。

 


好きな人は朝に散歩するのが好きだと言ってた。私は夜に散歩するのが好きだ。このちょっとの違いが私をわくわくさせる。朝日を浴びて一日を始める彼女と月光を浴びて一日を終える私。一緒だとつまらないし違いすぎると切ない。ちょっと違うくらいがちょうど良い。こうやってまたこじつける。

 


散歩の意味を調べてみた。みんながやるやつ。そもそも辞書で調べてみると…なんて白々しく言うやつ。すごく冷めるやつ。

散歩は「特別の目的をもたずに、気の向くままに歩くこと(大辞林第三版)」らしい。今日の私には目的がある。コンビニに着いた。82円切手とコーヒーを買いにきた。アイスコーヒーにしようかと思ったけどホットコーヒーにした。ぬくもりが欲しかった。100円で買えるぬくもり。唯一知ってるぬくもり。ホットコーヒーで体を温めることをぬくもりなんて言わないことは知ってる。偽物でも良いからぬくもり、またはぬくもりに近いものが欲しかった。あいにく錯覚は得意技だ。ホットコーヒーをぬくもりだと誤認識するくらい朝飯前。ホットコーヒーのSと82円切手をくださいと言った。ホットコーヒーのレギュラーと82円切手ですね。と言われた。200円を渡し18円のお釣りが生まれた。18円の親になった。レシートは要りませんと伝えた。そちらにゴミ箱があるのでもしよろしければ自分で捨ててください。と言われた。自分で捨てた。ホットコーヒーを淹れ終わるのを待つ間に82円切手の裏側をひと舐めして手紙に貼り付けた。舐めることを許された数少ないもの。アイスクリームと切手の裏側。左手にコーヒー、右手に手紙を持ち店内を後にした。ポストに手紙を投函する。絶対に返信のこない手紙を書くのは辛い。ことばを形にしたかった。あなたのことが好きだという気持ちを形にしたかった。我ながら重いと思う。でも、こんなやり方しか知らないから許して欲しい。あなたを好きでいることを許して欲しい。

 


こどものころは夜の空は真っ暗だと思っていた。夜空なんかよりもコーヒーの方が真っ暗闇ということは知りたくなかった。雲もはっきりと白い。ピカっと光った。雷。雷なのにどれだけ待っても音がしない。検索。すごく遠いか落雷をしてないかのどちらからしい。へぇ~。